♪世界は二人のために♪


 「泰男くん?」
  学校帰りに川田と遊びに出ていた俺を呼び止めたのは、モデルばりの美人だった。
  身長は172・3cmくらい、膝丈のタイトスカートからスラリと伸びた足にハイヒールで、
 180ある俺と目線があまり変わらなくなっている。綺麗にネイルアートの施された指先で
 触れている唇は薄く、やはり綺麗にルージュが引かれている。その上に続く筋の通った
 鼻も切れ長の目も文句なしの造形だ。肩の辺りで揃えられた艶やかな髪は自然なダーク
 ブラウンで、肌の白さを際立たせている。
 「…どうも」
  隣で川田が呆然と口を開けているのを目の端に捉えて、溜息をつきながら会釈した。
 「学校の帰り?」
  ハスキーな声で綺麗に微笑まれながら訊かれて、頷いた。
 「そうです」
 「あー、惜しいな。この後会議がないなら、お茶できたのに」
 「…仕事中?」
 「そうなの。この先の客先に打ち合わせに行っててね、会社に帰るところなの」
 「…客先…」
 「本当に残念!じゃあ、また」
  余程急いでいたのか(それなら、俺に声を掛けなければいいのに)、時計を確認すると 
 早足で通り過ぎる。
  その背中を目で追っていた川田が、羨ましそうに訊いた。
 「知り合いか?」
 「姉貴の」
 「お姉さんの友達かぁ。羨ま」
 「彼氏だ」
 「は?」
  人の言葉の途中で勝手に先を予測した川田の言葉を俺も遮ってやる。感想を遮られた川
 田は、間抜けた顔でこちらを見た。それから、次第に俺の言葉を呑み込み始めたらしい。
 「…て、ことは、あの人、レ」
 「男だ」
  そう誤解されても仕方ないが(いや、女が好きなのは当たっているから正解か? いや
 やっぱり根本的に誤解だな)、そう誤解されると姉貴も同類ということになってしまうの
 で(いや、この場合姉貴は…)、川田の言葉を俺は遮った。
 「男!?で、でも、あの人…」
  スカート穿いてたじゃん…と続けたかったのだろうということは分かる。俺もそう続け
 たことがある。でも。
 「あんなナリでも、あの人は男なんだ…」
 「……」
  絶句した川田に、俺は絶望的な溜息をついた。
  プライベートの時だけだと思っていたのに(いや、それも大概ヤバいが)
 「…仕事中もなんだ…しかも、客先…」


  姉の綾女が衝撃的な告白(実際この告白のお陰で我が家は大パニックに陥った)をした
 のは、1ヶ月程前のことだ。

 「私、結婚します」
  夕食の席で、突然箸を置いて、何の前置きもなく姉貴がそう言ったことだけでも驚いた。
  何しろこの姉貴、20代も後半に入るというのにピンクハウス系の服を好んで着るような、
 どこか浮世離れした女なのだ。容姿も一つ間違えれば十代で通ってしまうような、ライト
 ブラウンに染めてカールした髪にきめの細かい白い肌。大きいのは黒目がちの目だけで、
 あとは小造りな鼻と口。「化粧いらず」と言われる所以は、風呂好きで血行の良い姉貴は
 化粧を落としても唇は赤く、爪はピンク色、色白のせいで頬もほんのり赤く透けて見える
 こと。平熱も高いので、側に寄るとふわりと暖かい感じがする。それも、姉貴のイメージ
 を柔らかく幼くしている要因の一つだろう。誰も彼もが綾女を前にすると小さな子供の保
 護者のような態度を取ってしまう、そんな女なのだ。今まで恋愛なんてしたこともないだ
 ろうと思っていた。両親がその将来を密かに心配していたことも知っている。
  最初に立ち直ったのは、さすがに母親だった。
 「誰と?」
 「祥(しょう)ちゃんと」
  姉貴が答えた途端、全員の肩から力が抜けた。
  祥ちゃんというのは、うちにもよく遊びにくる姉貴の美人の友達だったからだ。
 「何を子供みたいなことを言っているの。あなたももういい歳なんですからね、しっかり
 しなさい。それこそ祥ちゃんを見習って」
 「そういえば、あの子は今度課長に昇進したそうじゃないか」
  呆れ返って、綾女を叱った母の言葉に父も感心したように頷いた。
 「え?祥さんの会社って一流企業じゃん」
  俺でも誰でも名前を知っている、このどん底の不況をモノともしてない会社だ。
 「あそこは徹底した実力登用だからな。老若男女関係なしで実績が全てだ。余程立派な実
 績を築いているんだろうな」
 「すごいわねぇ。若くして、しかも女だてらに」
  完全に話題を祥さんに移していた俺たちはダンッとテーブルを叩いた音に驚いて姉貴を
 振り返った。
 「私の話を聞いて!」
 「何?」
  目を吊り上げた姉貴にまた驚いて(綾女は滅多に怒らない)、先を促した。
 「だから、結婚するんだってば!だいたいお母さん!」
  きっと母親を振り返って言った次の台詞に、俺たちは凍りついた。
 「祥ちゃんは男よ!何を言っているの?」
  完全にフリーズしてしまった家族を見回して、姉貴は溜息をついた。
 「当り前じゃない。じゃなきゃ、結婚なんてできないでしょう?」
 「…だ、だって、あの人、ス、スカート穿いてたじゃん」
  今度最初に立ち直ったのは俺だった。いや、立ち直ったわけじゃないけど、納得できな
 くて。姉貴の言う「祥ちゃん」も「祥子さん」の略だと思っていたのだ。
 「えぇ、似合うでしょ?」
  それがどうかした?と言いたげに首を傾げた姉貴に、立ち直ったわけじゃなく、ちょっ
 と我に返った父親が椅子を蹴倒して立ち上がった。
 「許さーんっっっ!!」
 「どうして?お父さんだって、祥ちゃんのことは気に入ってたじゃない。さっきだって、
 誉めてたでしょう?」
 「それとこれとは別問題だ!」
 「どう別なの?」
  激昂する父親とは反対に姉は完全にいつものペースに戻っていた。そのぽややん加減が
 父親を余計に苛立たせている。母も俺も口を挟むことはできなかった。
 「じょっ女装なんぞしている男に娘はやれん!」
 「祥ちゃんは自分に似合うものを選んでいるだけよ?センスがいいの」
 「だから、そういう問題じゃない!だいたい、女の振りをしてうちにやって来るという根
 性が気に入らん!」
 「女の人の振りをしていたわけじゃないわ。…もしかして、皆知らなかったの?」
 「知るわけないだろうがっ!」
  怒鳴った父親と固まったままの母親と俺の顔を見回した姉貴は、心底不思議そうに言っ
 た。
 「でも、女の人にしては背が高いし、声も低いし、胸もお尻もぺっちゃんこでしょう?」
  そう言われると分からない方が悪いようだが、あの人本人を見て、一目で男だと判別で
 きる人がいるなら、見てみたい。姉貴の言ったどれもこれも「スレンダーなモデル体型」
 と言ってしまえば、納得できてしまう程度のものだ。
 「と、ともかく」
 「きっとお父さんも許してくれると思うの」
  更に何かを言おうとした父親を遮って、姉は最後の爆弾を落とした。
 「だって、可愛い孫から父親を奪うなんて酷いことできるはずないもの」

  姉貴がずっと仲の良い女友達だと思っていた人と結婚する。しかも、できちゃった婚。
  あの少女趣味でぽややんとした姉貴がどんな男と結婚するのかと考えたことはあった。
 少女漫画のヒーローのような奴か、あるいは意外にムッキーズか。結局姉貴が選んだのは
 ある意味最も少女趣味と言える祥さんだった。姉貴、もしかして男嫌いなのか…?しかし、
 やることはやってたんだなぁとも思う。でも、想像できない。(いや、想像するもんじゃ
 ないのは分かってるんだけど、どうしてもレズってるようにしか…)…俺と同じもんが祥
 さんについてるなんて…(いや、それは想像したくない!)
  俺たちの受けた衝撃を知らぬ風に話はとんとん拍子に進んだ。(だから、本当は「彼」
 のことを説明するなら「姉貴の婚約者」だ)
  祥さんがうちへ挨拶に来、姉貴が祥さんの実家へ挨拶に行き、結納代わりの両家の食事
 会が行われた。
 「祥ちゃん、これ美味しい」
 「ほんと。綾女、気に入った?私の分も食べる?」
 「嬉しい。でも、美味しいから祥ちゃんにも食べてほしいの」
 「大丈夫。綾女が美味しそうに食べてるのを見る方が私は幸せになれるから。それに今は
 二人分食べなきゃいけないでしょう?」
 「じゃあ、貰っちゃおうかな」
 「お皿に移すの難しいね。食べさせてあげる。はい」
 「あ〜ん」
  ………そういうのは二人っきりのときにしてくれ、という果てのないイチャイチャを繰
 り返すバカップルにうちの家族も祥さんのご両親も取り残されていた。(実際、祥さんが
 うちに挨拶に来たときもこの調子で、誰も(反対の)口を挟むことが出来なかった)
  祥さんのご両親は現れたときから真っ青で、席につくなり「すみません」を繰り返した。
 祥さんのご両親は息子の奇行(女装のことだ)をすごく気に病んでいるらしく、姉貴が挨
 拶に行ったときにも「良いんですか?本当に良いんですか?」を繰り返していたらしい。
 「責任は取らせます。でも、止めるなら今のうちですよ」とまで言われたらしい。言われ
 た当の姉貴はけろりと笑って「祥ちゃんの魅力を理解してないなんて、物分りの悪いご両
 親よねぇ」と言っていた。

 「この度はうちの愚息がとんでもないことをしでかしまして、そちら様にはどのようにお
 詫び申し上げれば」
 「やだぁ、お義父様ったら、またそんなこと仰って。祥ちゃんは愚息なんかじゃありませ
 んよ。すごく賢くて優しいでしょう?自慢して下さい。私なんて、皆に自慢してます」
  うちの両親に向かって頭を下げた祥さんの父親の言葉を遮ったのは、その肩をばんばん
 と叩いた姉貴だった。自信たっぷりの姉の言葉にたじたじとなりながら、祥さんの父親が
 言う。
 「綾女さん、結婚前の女性に手を出すなんてことをする男は愚息と呼んでも足りません」
 「愛が溢れてしまったんだから、仕方ないですわ」
 「そもそも、こんな風体で外をのうのうと歩くなんて、一人息子でなければさっさと縁を
 切っているところです」
 「…祥ちゃんはとても魅力的ですわ。それを分からない人の方が頭が悪いと思いますわ」
  ムッとしたような姉貴の言葉と態度に今度はうちの両親が顔色を無くした。
 「すみません!綾女!」
  姉貴を叱り付ける両親の言葉に反応したのは、祥さんだった。
 「綾女は私を庇ってくれたんですよ。頭の固い親父からね。ありがと、綾女」
 「ううん、祥ちゃん。私は本当のことを言っただけよ」
  一事が万事この調子で誰にも止められない。とんとん拍子で話を進めたのはこの二人だ
 った。周りは皆置いてけぼり。もう好きにしてくれ状態。
  食事会から帰った後、父親は拳を握り締めて言った。
 「分かる、分かるぞ。俺には分かる。あちらのご両親は息子の奇行を止めてくれる、しっ
 かりしたお嫁さんが欲しかったんだ。なのにっ」
 「あなた、もう仕方ありませんよ。向こうのご両親も諦めていらっしゃるようだし、うち
 も諦めましょうよ。お相子、ということで」
  父親の腕に手を掛けて、溜息をつきながら言った母の言葉が結論となった。

  その後、新郎新婦が二人ともウェディング・ドレスという前代未聞の結婚式が行われ、
 姉貴は家を出ていった。
  ちなみに、この友人達の祝福と親戚の強張り顔で溢れた結婚式(披露宴)は、お揃いの
 レースの型違いのドレスも式場も何もかも、ずっと前から二人で決めてお金を貯めていた
 そうだ。そんなに前から結婚することを決めて付き合っていたのかと思うと寒いやら、感
 心するやらで、何とも言えない。
  何とも言えないと言えば、祥さんの会社の人たちは祥さんが結婚するなら宝塚の男役の
 人のような、もっと言ってしまえばオナベのような人だと思っていたらしく、少女趣味な
 姉貴を見て、何とも言えないような複雑な顔をしていた。
  祥さんが課長に昇進したら結婚するというのも約束していたそうで、妊娠が分かったの
 が課長昇進の辞令を受けた日だったので、これはもう運命だと思ったと挨拶をした祥さん
 は、続けて「頑張って、素敵なパパになります」と言って、また招待客の複雑な顔を引き
 出した。
  とにもかくにも、バカップル全開で、まるでおままごとのような新婚生活を送っていた
 姉夫婦だったが、嵐がやってきたのは、本人達大満足の結婚式から4ヶ月後のことだった。


 「浮気ぃ!?祥さんが!?」
  素っ頓狂な声を上げた俺に、おかわりのご飯をつぎながら、母親は溜息を付いた。
 「…て、綾女は言うんだけどね…」
 「…それって、男と?女と?」
 「そりゃ…祥ちゃん、男の人なんだから…」
  恐る恐る訊いた俺に、母親はもごもごと言っていたが、どうにも信じられない。
 「つーか、姉貴の勘違いなんじゃねぇの?」
 「お母さんもね、そう言ったんだけど、ほら、あの子も変なとこで意固地じゃない?
 聞かなくて…」
  急須にお湯を注ぎながら、再度溜息を付いた母は、心底憂鬱そうな顔をして頭を振った。
 「よりにもよって、こんな時にそんなこと言い出さなくてもねぇ…」
 「こんな時って?」
  湯呑みにお茶を貰いながら、首を傾げる。悪阻だとかマタニティー・ブルーだとかいう
 時期は過ぎているハズだ。(と、聞いた。)
 「水嶋のね、おじいちゃまが来られるのよ…」
 「えっ!?まじで!?」
  水嶋のおじいちゃまというのは父方の祖父で、遠方に住んでいる。その辺りでは有名な
 人物らしく、何故だか知らないが「先生」と呼ばれていたりする。昔何かしていたらしい。
 (が、よくは知らない。)そのせいかどうかは知らないが、とても厳格な人で俺は祖父が
 苦手だった。もっとも、苦手なのは俺だけではないらしく、父や家族を含めた親戚一同、
 祖父には誰も逆らえなかった。まさに封建時代の家長とでもいう感じだ。
  そんな祖父が多くの孫の中で最も可愛がっているのが姉の綾女だった。俺も含めた従兄
 弟達は誰もその贔屓を羨ましいとは思わなかった(どころか、どっちかというと、常に側
 に呼ばれる綾女に同情の目を向けていた)ので、何の問題もなかった。当然、姉の結婚式
 には祖父も出席するはずだったのだが、祖父には間の悪いことに、俺達には運の良いこと
 に、その直前にぎっくり腰になったのだ。遠方から、そんな状態で出席できるはずもなく、
 祖父は欠席となった。結婚式後、挨拶に行く予定だった姉夫婦も悪阻の酷くなった姉貴の
 体調のせいで行かず仕舞い。腰が癒えて、綾女の婿の検分に来るということらしい。
 「ど、どうすんだよ」
  どうしようもないことは分かっていながら、俺は落ち着かず母親に上擦った声を掛けた。
  ぽややんと何を考えているのかよく分からない姉貴はのほほんと惚気ながら電話で結婚
 報告をしていたのだが、俺達にしてみれば、お気に入りの姉貴の旦那である祥さんが「ア
 レ」であることに厳格な祖父がどんな反応をするのか想像するのも恐ろしく、結婚式を欠
 席してくれて、本っ当に心底安堵したのである。結果的に娘のできちゃった婚なんていう
 ふしだらな事を許したことになる父親なんかは戦々恐々として顔を白くしていたのだ。
 「お父さんは、その日に仕事が入るように神頼みしてるわ…」
  全然解決にならないことを母は言った。いや、解決にならないことをしているのは親父
 か…。
 「祥さんに男装(?)してくれるように頼むとか…」
  せめて、と口に出したが、だからこその「よりによって」なんだと分かって、ブルーに
 なった。(まあ、いつも通りだったらいつも通りで、そんなことは必要ないと惚気で撥ね
 返されるだけなんだろうが…。)

  問題は解決しないまま、それでも時間は無情に過ぎていき、それと共に姉の疑惑はます
 ます深まり、もうあとは恐怖の大王の到着を待つばかりとなった。
  昨夜のうちに実家に戻って来て、和室の掃除を手伝ったりしていた姉貴は、それでも余
 所行きらしいベージュのマタニティースーツを着て、不貞腐れた顔で座布団に座っていた。
  神頼みがきかなかった父親は紙のような顔でスーツを着て、リビングを熊のようにうろ
 ついている。望んでいた親父の代わりに仕事が入った祥さんは後から来るということで、
 まだ来ていない。
  俺が買ってきた和菓子を母親が盆に盛ったところで、表にタクシーの停まる音がした。
  家族全員で迎えに出ると、相変わらず厳しい顔をした祖父が節くれ立った杖をついて、
 後部座席から降りてくるところだった。
  とりあえず、お気に入りである姉貴を前に押し出す。祖父の威厳をちらりとも感じ取れ
 ていない風情の姉貴は、それでも真面目な顔をして出迎えた。
 「いらっしゃい。おじいちゃま」
 「うむ」
  もうすでに結構な大きさになっている姉貴の腹をちらりと見遣って、祖父は姉が支えよ
 うと差し出した手をやんわりと拒み、俺に手を貸すよう、目で命じる。
  姉貴の案内で、和室まで祖父を支えて行った俺は、祖父が上座の座布団に腰を下ろすと
 そそくさと逃げ出した。
  母親がお茶と和菓子を持って行き、和室を祖父と姉貴の二人だけにすると、俺達はひそ
 ひそと家族会議(?)を始めた。
 「なぁ、大丈夫なのかよ?」
  俺が心細げな声で父親に聞くと、白い顔をした親父は額に冷汗を浮かべて、唸った。
 「…分からん。一応、一昨日祥くんには電話で男物のスーツを着て来てくれるよう、頼ん
 ではみたんだが…」
 「祥さん、何て?」
 「綾女の様子が気になるらしくて、上の空でなぁ…」
 「ダメじゃん!」
 「というより、祥ちゃん、男物のスーツ持ってるの?」
  母親が素朴といえば素朴過ぎるような(基本といえば基本のような…)疑問を口にした
 時、がらっっと玄関の開く音がした。祥さんだ!と、慌てて出て見た俺達は顎を落とした。
 「遅れて、すみません」
 「祥くん…」
  父親が安堵か感謝か分からない表情で涙ぐんだ。俺は初めて見た彼の姿に声がなかった。
 「と、とにかく、こちらへ。おじいちゃま、もういらしてるの」
  一番最初に立ち直った母親が祥さんを案内していく。俺と親父もその後について行った。

 「祥さんがお見えになりましたよ」
  母親がそう声を掛けて、襖を開ける。その後ろから祥さんが会釈をしながら入って行っ
 た途端、空気がぴきんっと凍ったような気がした。
 「な、何?」
  不気味な感じに思わず声を掛けると、それをきっかけにしたように姉貴がすっくと立ち
 上がった。そして、じっと祥さんを見詰めたままで、言った。
 「おじいちゃま。私、離婚します!」

 「はっ!?」
 「ええぇぇぇ!」
 「なっ何を言っているんだ!」
  姉貴の言葉に目を剥いて驚いたのは、うちの家族三人だけだった。
  姉貴は相変わらず祥さんを睨んでいるし、祥さんは呆然と声もないようだった。唯一平
 然としている(ように、俺達には見えた)祖父だけが、姉貴仕様の落ち着いた声を掛けた。
 「どうして離婚したいのか言ってみなさい」
 「理由は祥ちゃんの浮気ですっ!」
 「えっ!?」
  ここで、初めて祥さんが驚いた声を上げた。
 「浮気っ?私がっ!?綾女、そんなこと疑ってたの?」
 「疑いなんかじゃないわ!」
 「だって、私、浮気なんかしてない!」
 「じゃあ、その格好は何なのよ!!」
  びしっと、祥さんを指差して姉貴は怒鳴った。
  そう、今日の彼はいつもと違った。初めて見る男物のシングル・スーツで、しかも、肩
 の辺りで揺れていた髪はばっさりと切られ、サイドを流すように整えられていた。
  黒のスーツにパステルカラーのシャツ、趣味の良いネクタイは女と見紛うような彼の美
 貌をより際立たせている。…と思う。もともときりっとした顔立ちの人だとは思っていた
 が、髪が整えられて綺麗な輪郭が見えると、知的で頼り甲斐のありそうな感じが強調され
 て、少し華奢な感じはあるが、祖父がどうやっても反対のできそうのない「いい男」だ。
 …と思う。何が悪いと言うのだろう?
  …いや、現実は直視しなければいけないこともあるだろう。姉貴の言いたいことは分か
 る…と思う。何せ、花婿とお揃いのウェディングドレスを着て喜んだ花嫁だ…。
  同じことに思い至ったらしい父親が慌てて、姉貴を宥めにかかる。
 「何を言っているんだ、綾女。素晴らしい格好じゃないか…」
 「そうよ、男らしくて素敵じゃない」
  母親も同調して、これ以上姉貴が余計なことを口走らないようにと必死だ。
  しかし、姉貴はそんな両親の言葉を欠片も耳に入れてなかった。
 「おじいちゃまに挨拶する時には、お揃いのスーツにしようねって約束したじゃない!」
  ス、スーツなら、男物もあるよな…うん。
 「綾女、落ち着きなさい」
 「おじいちゃまは黙ってて!!」
  ダンッと片足で畳を踏み付けて、姉貴が怒鳴った。祖父に…あの祖父が誰かに怒鳴り付
 けられる光景を見る日が来ようとは…。しかも、怒鳴り付けたのは普段ぽややんと「怒り」
 なんて感情があるのかどうかも分からないような姉貴なのだ。祖父もそんなことがあると
 は思っていなかったのか、あるいは俺達ですら見たことのない姉貴のその激怒に驚いたの
 か、目を白黒させている。
  両親はあまりのことに蒼白になっている。俺も何だか気分が悪くなってきた…。
 「一緒にスーツ買いに行ったじゃない!私がマタニティーだから、なかなかお揃いってい
 うわけにいかなくて、同じ色のスーツ探したじゃない!すごくすごく探して、スカートの
 丈がちょっと違うけど、タイトな感じが似てるの買ったじゃない!どうして、それ着て来
 てくれないのよ!」
 「これは…!違うの!本当に最初は約束通り着てたの!でも、会社で業者が置いて行った
 ペンキ被っちゃって…同じ物を探しに行く時間もマンションに帰ってる時間もないし、営
 業の後輩が会社にスーツ置いてるって言うから借りたの!それで、さすがに普通サイズの
 女性物は入らなかったから、男の後輩に借りるしかなかったの!」
 「ペンキだらけの方が良かった!どうして、髪までっ!?その格好だからでしょっ!?」
 「違う!髪にまでペンキが掛かったの!水だけじゃ、洗っても落ちないし、仕方がないか
 ら切ったの!お化粧もさすがにこの髪とスーツじゃ、おかしくて落としたの!だって、綾
 女の大好きなおじいちゃまにお会いするのに、酷い格好なんてできないから!」
  …機関銃掃射を喰らった気分だ。多分、両親も。祖父の顔は怖くて見れない。
 「…ねぇ、それだけじゃないよね。どうして、私が浮気してるなんて思ったの?最近様子
 がおかしかったのはそのせいでしょ?」
  大きく息を吐いた祥さんがゆっくりと言った。
 「…一ヶ月くらい前、朝と違う口紅付けて帰って来たし…」
  姉貴もゆっくりと祥さんを睨んだまま、低い声で言う。
 「あれは、外回りに出たときにお店で新色が出てたから見てたら、店員にテスター塗られ
 たの」
 「その次の日くらいに、知らない…持ってない香水の匂いがしたし…」
 「それは、部下の女の子に掛けられたの。シトラス系のヤツでしょ?昼休みにうちの部署
 の皆で付けて遊んでたから」
 「祥ちゃんの趣味じゃないスカーフ…」
 「私の補佐になった子に貰ったって言ったよね?」
 「だって、よく電話掛かってくるし…電話掛かってきたら、内緒話みたいに祥ちゃん仕事
 部屋に行っちゃうし…」
 「昇進したばっかでね、彼女張り切ってるの。仕事部屋に行くのは、リビングでしてたら
 綾女が嫌な顔するから」
 「私が嫌だから!?じゃあ、どうしてお買い物行くときにお揃いのワンピース着てくれな
 いの!?私、嫌なのに!」
 「それは…」
  それまですらすらと答えていた祥さんは、ここで初めて口篭もった。
  男として、ワンピースで出掛けるというのは非常に嫌だが、この祥さんがそんなことを
 気にするとは思えない。今までも、よくそんなことをしていたのを俺達は知っている。(
 つーか、もしかして祥さんの女装って姉貴の趣味か!?そ、それはそれで姉貴が怖いが…)
 「どうして!?誰かに見られたら困るからじゃないの!?」
 「違う!」
  目線をきつくした姉貴に祥さんは焦って否定して、それから照れたように少し姉貴から
 視線を逸らせた。
 「…恋人の自覚というか、夫の自覚というか、父親の自覚というか…」
 「祥くん…」
  祥さんの呟いた言葉に父親が感動したように目を潤ませた。が、姉貴は眉を顰める。(
 て、や、やっぱり姉貴の趣味なのか!?祥さんは彼氏(夫)として、姉貴の為に付き合っ
 てるだけだったのか!? だとしたら、すごいバカップル…いや、分かってたけど。じゃ
 なくて、まじで祥さんのご両親に謝らなきゃいけないのはうちの方ってことになる!)
 「守らなきゃって思ったの…。綾女と赤ちゃんを。綾女可愛いから、よくナンパもされる
 し、転びそうになった時とかにもフォローがしたいし…でも、ワンピースとかスカートだ
 と、動きがどうしても鈍るからパンツにして…」
 「じゃあ、赤ちゃんが生まれたら、またお揃い着てくれるの?」
 「うーん、手が掛からなくなったら…かな」
 「どうして、そう言ってくれなかったの?『今日は違う気分なの』って言ったじゃない」
 「…だって、恥かしかったから…」
  そう言った祥さんは実際少し顔が赤くなっていた。いつも堂々とゲロ甘カップルを見せ
 付けている人が、何故そこで照れる!?とは思わないでもないが、分からないでもない。
 が、姉貴には全く分からなかったらしい。
 「分かんない!」
 と、はっきり言った。
 「でも、守ってくれようとしてるのは分かったわ。でも、祥ちゃんはスカートでだって
 いつも守ってくれてたし、私はお揃いの服を着てお出掛けしたいわ」
  祥さんが苦笑する。その顔を見た姉貴は溜息を付いた。
 「分かってる。祥ちゃん、完璧主義者だもんね。最善を期するのよね。…でも」
  また、きっと祥さんを睨み付けた姉貴は言葉を切って、見たことのない恐ろしい表情を
 した。
 「それじゃあ、どうして、首筋にキスマーク付けて帰るような間抜けなことしたの…?」
 「え…っ!」
  ざっと家族の視線の矢でハリネズミのようになった祥さんはもう消えて見えないその跡
 を咄嗟に手で押さえた。
 「何で…?」
  地獄の底から響くような声で、姉貴が追求する。今度こそ本当に祥さんは動揺していた。
 「そ、それは…」
  心なしか、顔色も悪い。
 「祥くん…」
  父親が怒った目を向ける。(とはいえ、姉貴の迫力の比ではない)
 「祥ちゃん…」
  母親も咎める目を向ける。
 「…祥さん」
  俺は呆然とした目を向けた…と思う。このバカップルに「浮気」なんて単語が本当にあ
 るとは思ってなかったのだ、実際。絶対に姉貴の勘違いだと思っていたのに。
 「ねぇ…」
  姉貴の声はますます低くなっていく。
 「忘年会の時だったわよね……やっぱり、お酒のせいでって言うの?酔ってた…」
 「あーーーーーーーーーーーっ、もうっ!分かりましたっ!」
  突然、頭を抱えた祥さんが叫んだ。言葉を遮られた姉貴も驚いて目を見開く。
 「言うよっ!言えばいいんでしょっ!酔った部長に吸い付かれたのっ!『君は本当に綺麗
 だねぇ』とか『本当に男か調べてあげよう』とかすっごいベタでオヤジなセクハラ紛いを
 されたのっ!あんなでも上司だからぶっ飛ばすわけにはいかないしっ!酒も入ってるし!
 危ないから女の子に相手させるわけにはいかないしっ!仕方なかったのっっ!!」
  自棄になって喚き散らす祥さんを全員呆然と見遣った。いつも毅然としている祥さんの
 そんな取り乱した様子は激怒した姉貴と同じくらい見たことのないものだったし、何より
 言っている内容が…。
 「…祥ちゃん、可哀相…」
  さっきまでの地獄の激怒が嘘のような哀れみの表情を浮かべた姉貴に、祥さんは鳥肌の
 立っているらしい腕や首筋をごしごし擦りながら、更に叫んだ。
 「くっそーーーーーっっっ!忘れてたのにっ!!っていうか、思い出さないようにしてた
 のにっっ!!!あの油ハゲっ!あの油ハゲのせいで、気色の悪い思いしただけじゃなくっ
 て、浮気の疑いまで掛けられるなんてっ最っ悪!!!疫病神かっ!油ハゲっ!!!」
  完全に理性を失ったらしい祥さんにそっと姉貴が近寄り、抱き締めて、背中を擦る。
 「ごめんなさい、祥ちゃん。私が悪かったわ。その時に聞けば良かったのよね…。そうし
 たら、そんな嫌なこと思い出さなくてすんだのに…」
 「綾女っ!私はねっ、綺麗な物が好きなのっ!だから、浮気なんて絶対にないっ!」
  姉貴をぎゅっと抱き締め返して、祥さんが怒鳴るように言う。
 「そう、そうね。本当にごめんなさい…」
  涙を浮かべて見上げる姉貴に、少し悲しそうな顔をした祥さんは更に言った。
 「本当はね、すぐにでも消毒してほしかったの…。でも、そんなことすると、あの油ハゲ
 と綾女が間接キスすることになるんだと思ったら、耐えられなくて…」
 「そんな…祥ちゃんなんだから平気だったのに。祥ちゃんだけに気持ちの悪い思いなんて
 させたくなかった…」
 「綾女…」
 「祥ちゃん…」
  …おい。
  祥さんが姉貴の顎に手を掛けて、見詰め返し…て、おい!
 「ごっほん、げっほん」
  父親の白々し過ぎる咳き込みに、何とか二人の世界からこっちの世界に戻って来れたら
 しい姉夫婦は、それでもお互いにうっとりと微笑み合ってから、周囲を見回した。
  ようやく、いつもの様子に戻った二人は揃って座った。つられて、俺達もその場に腰を
 下ろした。(というより、気が抜けてへばった感じだが)
  姉貴が上座に笑顔を向ける。
 「おじいちゃま」
  はっ!そうだ…った!祖父が、あの祖父が居たんだった…!!
  恐る恐る上座に顔を向けると、白黒させていた目は既に通常の威厳をたたえ、先程の騒
 動などなかったかのように泰然としている。
 「この人が私の自慢の旦那様、祥ちゃんです」
  語尾にピンクのハートマークでも付いているような甘ったるい口調で、姉貴が改めて
 祥さんを紹介する。にっこり笑うその顔も新婚蜜月の甘さだ。
 「お初にお目にかかります。先程は見苦しいところをお見せしまして、申し訳ございませ
 んでした」
  さすがにこちらは少し緊張したような真面目な顔をして、祥さんが頭を下げた。
  ごくり、と後ろで父親か母親が唾を飲み込む音が聞こえた。完璧な挨拶といい、今まで
 見たことのないような、本当に男前の祥さんだが、何と言ってもさっきがさっきだ。(ス
 カートだの化粧だのと思いっきり叫んでたし…)祖父がどんな反応を返すのか、皆で息を
 呑んで見守ってしまう。
 「うむ…」
 とだけ、祖父は言った。ど、どういう反応なんだろう…?
 「祥ちゃんね、今日はこんな格好なんだけど、本当はね、すっごく綺麗なのよ」
 「んぐっ!」
  また、後ろで変な音がした。父親が何か(おそらく、自分の叫び声か何かだ)を飲み込
 んだらしい。
 「そうか…」
  姉貴に向かって頷いた祖父はそのまま目を細めて、姉貴を見遣った。
 「わしは孫には甘くてな…特にこの綾女は我が儘に育ててしまったと思う」
  どこが甘いんだーっ!とか、誰が育てたんだーっ!とかいう各個人の心中で吹き荒れる
 ツッコミを知らずに、祖父は視線を厳しくして、祥さんを見た。
 「…君は女の格好をするそうだが、それは…綾女の我が儘かね?」
  それは、さっきから俺が気になり始めていたことだ。どきどきしながら、祥さんを見る。
  祥さんは背筋を正して、ごく真面目に言った。きっぱりと。
 「いえ、私の趣味です」
 「ぎゃーっ!」という親父の心の絶叫を聞いた気がした。というか、多分聞いた。恐らく
 真っ白になってしまった父親に、やはり心の中で手を合わせ、祖父の反応を待った。
 「そうか…」
 と、祖父はまた言った。それだけだった。が、見間違いでなく満足そうな表情をしている。
 「次は常の格好で来い」
  しばらくおいて、祖父が言った。祥さんが認められた瞬間だった。
  身内に対しての横柄な口のききかたをした祖父に父親と母親は体中の空気が抜けたよう
 にへたり込み、姉貴はにっこりと笑い、俺は初めて尊敬の念を抱いた。
  この人は本当にすごい人だ…。すごいというか大きい…。
  祥さんも多分似たような表情をしていたと思う。でも、安堵の気配もあった。うちの両
 親に挨拶に来たときよりもよっぽど緊張していたみたいだ。ま、分かるけどさ。

  その後、甘過ぎて苦いような姉夫婦のいちゃつきぶりを調味料に全員で夕飯を済ませ、
 我が家へ一泊した祖父は、
 「子供が生まれたら見せに来い。約束の格好でな」
 と言って、翌日まだ早朝と言えるような時間にタクシーに乗り込んだ。
  台風一過。そして、雨降った後には地が固まったらしい。バカップルぶりがパワーアッ
 プしたような姉夫婦を見て、思った。

  バカップルに世界は甘く、そして二人を中心に回っているらしい。
  …俺もそんな彼女を見付けるぞーーーーーーーーーーーっっっ!!!
  

-END-

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